【ハンナと先生 南の国へ行く】3. パロ王国からの使者
その日は雨が降っていました。病院に着いたときは小降りでしたが、雨脚はどんどん強くなり、私はお父さんに車で迎えにきてもらおうかと考え始めました。
普段は庭で遊んでいる動物たちも、この日は病院の中でじっとしています。
ネコのメルは私の膝の上で寝ていました。
「あれ? さっきからモモを見ていない気がするけど、どこへ行ったんだろう」
メルがこうやって寝ているときは大抵モモがやってきて、身体をくっつけて一緒に寝ようとします。メルはそれを嫌がって別のところに行ってしまうこともよくありました。
今日はモモが現れません。どこに行ってしまったのでしょうか?
アレクサンダーが近付いてきたので、私は声を掛けました。
「アレクサンダー、モモちゃんを見なかった?」
「見ないよ。それよりも背中のウェイトを一つ増やしてくれない? 昨日食べ過ぎちゃった」
私は病院の棚からウェイトを一つ取り出し、アレクサンダーの背中にくくりつけてやりました。アレクサンダーは満足したようにピョコピョコと大股で歩いていきました。
窓の外はもう暗く、強い雨音が家の中にも響いてきます。窓ガラスの表面を流れる水がハッキリと見えるほどです。
以前モモはこのような雨の中遊びにいってしまい、ずぶ濡れになって帰ってきたことがありました。その後案の定風邪をひき、しばらく寝込んでいました。サクラが心配して、モモのそばから離れなかったのを覚えています。
私は外に出てモモを探しに行こうかと考えました。けどこんな薄暗い雨の日に茶色い色をしたタヌキを見つけ出す自信はありません。
そのとき目の前の窓に白い物体の影がくっきりと映りました。ここは1階ですが、この窓は庭に面していて、誰かが訪れるようなところではありません。私は驚いて身体が固まってしまいました。
窓の向こうの白い物体はゆらゆらと揺れていましたが、やがてコツコツコツと何か硬いもので窓を叩く音が聞こえました。金属で叩いたようなキンキンいう音ではありません。もう少し柔らかい、プラスチックとゴムの中間くらいの硬さのもので叩いた音のような気がしました。
しばらくすると、今度は小さな声が聞こえてきました。
「開けてください」
窓の外の主が言っているようでした。鳥語でした。私はハッとして立ち上がると、そっと窓に近づき、勇気を出してその窓を開けました。
開いた窓から入ってきたのは大きな鳥でした。一見して水鳥と分かりました。身体の形はアレクサンダーに似ていましたが、大きさはこの鳥の方が遥かに大きく、そして嘴の形が全然違いました。体長とほぼ同じくらいの長さがあり、嘴の下の部分が袋のように大きく膨らんでいました。
その鳥はずぶ濡れの身体を揺すりながら病院の中に入ってきました。
先生のお母さんが、
「あらあらあら」
と言いながら、大量のバスタオルを持ってきて、その鳥と周りの床を拭き始めました。
一通り身体を拭いてもらった後、その鳥がこちらを振り返りました。そして嘴を大きく開きました。嘴の中にはキョトンとした顔のタヌキが入っていました。
「モモちゃん!」
私が声を掛けると、モモは「どうしたの?」といった表情で首を傾げました。
「どうしたの、じゃないよ! 心配していたのに!」
私は嘴の中からモモを取り出しました。モモの身体はびしょ濡れでした。これは雨で濡れたもの? それともこの鳥のよだれ?
先生のお母さんもさすがに目を丸くしていましたが、すぐに乾いたバスタオルをもう一枚持ってきて、モモの濡れた身体を拭いてやりました。
「道でずぶ濡れになっているこの方を見つけました。話を聞くとジョン先生の家にお住まいとのこと。なんたる偶然でしょう。まさにジョン先生にお目にかかるために、私はこの国に参ったのです。それで道案内をお願いするがてら、私の嘴でお運びしました」
と、その鳥が事情を説明してくれました。
私はその鳥に訊きました。
「あなたはペリカンですね?」
「さようです。申し遅れました。私はパロ王国国王プリンス・パラキートより遣わされれたバロン・ペリカーノと申します。かの高名なるジョン先生にお願いの儀あって、遙か南の国から参りました。ジョン先生、お目にかかれて光栄です」
ペリカンは私に向かって頭を下げました。明らかに人違いをしています。
「私はジョン先生ではありません! ほら、こんな子どもだし」
私は慌ててそのペリカンに返答しました。
ペリカンは嘴を私の顔に近付けてよく見ようとしました。
「そうですか。私は人間の顔を見分けるのがどうも苦手で」
診察室から患者さんが出てきました。この日最後の患者さんです。ペリカンを見てさすがにギョッとした表情を浮かべましたが、ここがジョン先生の病院であることを思い出したのか、何も言わずに支払いを済ませて出ていきました。
私は先生を呼びにいきました。
「先生、お客様ですよ。遠くの南の国から来たというペリカンさんです」
先生はすぐに部屋から出てきました。
「初めまして。私がジョンです」
「おぉ、ジョン先生。私はパロ王国の使者、バロン・ペリカーノと申す者。我が主君プリンス・パラキートより親書を預かって参りました」
そう言うとペリカンは自分の身体にくくりつけた紙入れから、分厚い紙に封蝋が施された手紙を取り出しました。
「えーと、こちらが表紙で、いやこれは裏か。いや上下が逆さまだった。いやどうだったかな」
ペリカンはその大きな嘴で手紙をグルグル回し始めました。
私もほかの動物たちも呆れながら見ていました。
しかしその様子をじっと観察していた先生は、ハッと何か気付いたような顔をすると、
「ペリカーノ卿、少々お待ちいただけますか」
と言い置いて部屋に戻ってしまいました。しかし先生はすぐに部屋から戻ると、
「ちょっとこれをお使いください」
と言って、手に持った器具のようなものを差し出しました。
それはとても小さな丸いレンズが二つ付いた眼鏡でした。眼鏡のツルは円く湾曲し、見たことのない形の金属パーツで留められていました。
「ちょっと失礼」
先生はそう言って、その小さな眼鏡をペリカン、いえ、ここから先は私も「ペリカーノ卿」と呼ぶことにします、その小さな眼鏡をペリカーノ卿の顔にずれないようセットしました。
ペリカーノ卿は初め首を左右に振っていましたが、やがて驚嘆の声をあげました。
「見える! これはどうしたことだ、ものがよく見える。おぉ、あなたはどなたですか? え? あなたがジョン先生? これは大変失礼しました」
その頃には先生は、手紙を一通り読み終えていました。
「なるほど、すると王子がご病気と」
「はい、プリンス・パラキートの第一の王子、プリンス・オ・パラキートは、原因不明のご病気で、ずっと臥せっておられます。
「パロ王国というのはどのような国なんですか?」
「パロ王国は、お隣のオーブ共和国に隣接した小さな国です。小さな国ではありますが、パロは鳥の国。国民全てが鳥です」
国民が全て鳥の国! 私はそんな国が現実に存在することにびっくりしました。
ペリカーノ卿は姿勢を正し、あらためて先生にお願いしました。
「先生、どうかパロ王国にお越しいただき、王子の診察をしていただけないでしょうか?」
先生は少し考えてから答えました。
「分かりました。参りましょう」
そしてメティスの方を向くと、
「メティス、お前も行くかい?」
と声をかけました。メティスは、
「先生がいらっしゃるところならどこへでもお供します」
と答えました。
「構いませんか?」
と、先生はペリカーノ卿に確認しました。
「はい、全く問題ありません。パロ行きのフライトには、鳥と、飛行機を作った人間だけが乗ることができます」
「先生!」
不意に声を出した者がいました。振り返るとピッコロが棚の上にいました。
「あらピッコロ、来てたの?」
と私は言いました。
ピッコロはパタパタと羽ばたきながら降りてきました。先生が指を差し出すと、その先にとまりました。
「先生、お願いです。私も連れていってください。南の国の鳥だけの国。それはひょっとすると私のご先祖さまがやって来た国かもしれない。私、一度見てみたいんです」
ピッコロの言葉を聞いた私は焦りました。
私も南の国に行きたいと思いました。けどここで何もしなければ私がメンバーに選ばれる可能性はゼロです。
ピッコロだって何も言わなければ可能性はゼロでした。けどピッコロは自分の思いをそのままぶつけたので、先生に連れていってもらえる可能性が大きく高まりました。
「先生、私も!」
私は思いがけず大きな声を出してしまいました。
「ピッコロは私の友達だし、私も南の国へ行きたいです。先生のお手伝いもします!」
私は理由にならない理由を並び立てました。私が先生のお手伝い? そんなことができるとは思えません。けどこのチャンスを逃したくないと思ったから、思い付いたことをとにかく言葉にしました。
「ペリカーノ卿、確か人間もフライトに乗ることはできるんですね? そもそも私が乗れるくらいですから」
「その通りです。鳥と人間であればどなたでも結構です」
「分かりました。それでは私とメティス、それにピッコロで参ります」
先生は私の方に振り向きました。
「ハンナくんについては、もしお父さんとお母さんが了解なさるなら一緒にいくのは構わないよ」
私は黙って頷きました。
先生は再びペリカーノ卿に向かい、
「準備がありますので、1週間後に出発します。それまでしばらくお待ちくださるよう、王様にお伝えください」
と言いました。
ペリカーノ卿は使者の目的が果たせたことに安堵したのか、ふぅーっと溜め息をつきました。
「ジョン先生、お引き受けくださりまことにありがとうございます。それでは明朝雨が上がりましたら、私は一足先にパロへ帰り、王様に先生方の来訪を伝えましょう」
ペリカーノ卿はその晩、先生の家でたくさんの魚をご馳走になり、翌朝パロ王国に向けて飛び立ちました。