2025年6月29日 | A Journal of Moments

このブログはWordPressというシステムを利用し、商用のレンタルサーバーに文章を保存することで公開しています。
WordPressもサーバーの運営会社も何十年も何百年も永続することはありません。けれど特定のプロバイダに依拠していないので、非常にデータをコントロールしやすく、持ち運びが容易です。

ただ一つ問題があるとすれば、正確で客観的な記録とは何かということです。これから書こうとしていることは、私の価値観というフィルターを通して記憶され、文書化されています。その時点で正確性や客観性は幾分失われているような気もします。
けれども、そもそもそういった価値観無しには何も記録できないし、完璧な客観性を主張するよりは、私がどういった価値観の持ち主かを明らかにした方が、数十年後、数百年後の読者が「現在」(その時点では「過去」になっているでしょうが)を理解する上で、かえって親切ではないかとも思うのです。

今日は丁度、妻の実家に帰省しています。けれど妻はいません。別に先立たれたわけではなく、仕事が忙しいので、子ども二人を連れてきたのです。子どもたち(今年6歳になる女の子と、4歳になる男の子)はおじいちゃん・おばあちゃんの家に行くのが大好きですし、これで妻も心置きなく土日に仕事ができるでしょう。

こういうパターンはかなり珍しいそうです。男性も女性も舅・姑は苦手としている人が多いようで、夫(実の息子)や妻(実の娘)がいない状況でパートナーの実家に行くことはまずないと。
ところがうちはあまりそういうことを気にしないので、むしろ子どもの世話を肩代わりしてくれるので有り難いと、時折こういった形で帰省することがあります。

この帰省中、新聞代を現金で支払っているシーンに出くわしました。新聞、懐かしいですね。私も実家では取っていましたし、今も取っているはずです。私も学生時代の後半、日本経済新聞を取っていた時期があります。そのときは銀行引き落としでした。ただ下宿暮らしで貧乏していたので、帰省など1週間単位でいないときは配達を止め、累積で1ヶ月程度になると請求を1回抜いてもらったりということを平気でしていました。社会人になってから気づきましたが、銀行振替で止めたり戻したりをリクエストするなんて、ずいぶん面倒なことをお願いしていましたね。学生の多い京都だからこそ許されていたのかもしれません。

そう言えばその下宿は6畳(おそらく京間?)に共同キッチン、共同トイレ、共同シャワーで家賃は2万円少々といったところでした。これは当時(2000年頃)の基準でも異常に安いです。
今もそういった下宿が存在するのかどうかは定かではありませんが、あの街ならあってもおかしくないような気がします。